大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和54年(う)1933号 判決 1981年8月21日

主文

原判決を破棄する。

被告人を無期懲役に処する。

原審における未決勾留日数中五〇〇日を右本刑に算入する。

押収してある、ジャックナイフ一丁(押収品目は登山ナイフ。当庁昭和五四年押第六七九号の2)、米国貨幣九枚(同号の75)を被害者ジュリアナ・カンラパン・タムバオアンに、白布袋一枚(同号の38)を被害者辻山光機に、腕時計一個(同号の37)、時計バンド二本(同号の39)を被害者伊藤正昭の相続人に、それぞれ還付する。

理由

本件控訴の趣旨は、弁護人鈴木淳二、同大谷恭子(連名)、弁護人三島駿一郎、同新美隆、同早坂八郎(連名)及び被告人がそれぞれ提出した各控訴趣意書(同第一補充書及び同第二補充書を含む。被告人の控訴趣意は、右弁護人五名共同作成の控訴趣意書要旨と題する書面に基づき陳述された部分)に、これらに対する答弁は、検察官鈴木芳一が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

被告人の当審において陳述された控訴趣意の要旨は、多岐にわたるが、これらは、(イ) 不法に公訴を受理したとの主張、(ロ) 理由のくいちがいの主張、(ハ) 審理不尽、訴訟手続の法令違反の主張、(ニ) 違法性阻却事由の存在を理由とする事実誤認の主張、(ホ) 責任性阻却事由の存在を理由とする事実誤認の主張、(ヘ) 法令適用の誤の主張、(ト) 量刑不当の主張に整理することができる。<中略>

弁護人両名の控訴趣意第二、弁護人三名の控訴趣意第四、被告人の控訴趣意のうち、(ト) 各量刑不当の主張について

各所論は、要するに、被告人を死刑に処した原判決の量刑が不当に重い、というのである。

そこで調査するに、本件は、被告人が

(1)  昭和四三年一〇月初旬ころ、原判示第一の基地内のマニュエル・S・タムバオアン方で同人の妻ジュリアナ・カンラパン・タムバオアン管理の拳銃一丁、実包約五〇発、ジャックナイフ一丁、八ミリ撮影機一台、ハンカチ二枚、米国貨幣十数枚を窃取し、

(2)  昭和四三年一〇月一一日午前零時五〇分過ぎころ、原判示第二のホテル敷地内で同判示中村公紀から見咎められ、逃走しかけた際、養衣の後襟首を掴えられ、その手を振払つて転ぶや、同人を狙撃して逃走すべく、同人が死に至るべきことを認識しながら、一、二米離れていた同人の顔面に向け、右拳銃で二回狙撃して同人の左上頬骨弓部に盲貫射創を、左側頸部に貫通射創を負わせ、同日午前一一時五分ころ、同判示東京慈恵会医科大学付属病院で同人を右盲貫射創による脳挫傷及びくも膜下腔出血等に基づく外傷性脳機能障害により死亡させて殺害し、(以下「東京プリンスホテル事件」という。)

(3)  昭和四三年一〇月一四日午前一時三五分ころ、野宿すべき場所を求め俳徊していた原判示第三の八坂神社本殿と拝殿の間の石畳上で、同判示勝見留治郎に訝られ、所携のジャックナイフを擬して脅迫し逃走を図つたが、同人から警察への同行を求められるや、同人を射殺逃走しようと決意し、所携の拳銃で同人を六回狙撃し、うち弾丸四発を同人の頭部、顔面に命中させて、同人の右前頭後部に貫通射創を、左側頭部・左側頬部・右下顎部に各盲貫射創をそれぞれ負わせ、同日午前五時三分ころ同判示大和病院で同人を左側頭部の盲貫射創に基づく左側頭葉挫滅、大脳等のくも膜下出血、脳挫傷により死亡させて殺害し、(以下「京都八坂神社事件」という。)

(4)  自殺するつもりで渡道したが、その気も薄れて、東京方面へ戻ることにした昭和四三年一〇月二六日夜、拳銃でタクシー運転手を射殺して金を強取しようと決意し、同日午後一〇時五〇分過ぎころ、原判示第四の函館駅前付近路上から斉藤哲彦運転のタクシーに乗車し、同判示秋田吉五郎方前路上で同車を停車させ、同車後部座席から運転席の斉藤の頭部、顔面を拳銃で二回狙撃して命中させ、同人の右眼瞼左端部に盲貫射創を、鼻翼部に貫通射創をそれぞれ負わせてその反抗を抑圧し、同人管理の現金約七、〇〇〇円及び約二〇〇円在中の小銭入れ一個を強取し、翌二七日午前八時一五分ころ、同判示市立函館病院で右盲貫射創に基づく右硬膜下出血により死亡させて殺害し、(以下「函館事件」という。)

(5)  京浜地区から離れ、名古屋で働くべく赴いていた昭和四三年一一月五日午前一時二〇分ころ、原判示第五の伊藤正昭運転のタクシーに乗車して走行中、同人と言葉を交すうち、同人から「あんた、東京の人でしよう。」といわれるや、前記各犯行の発覚と逮捕を恐れると共に所持金も十分でなかつたところから、同人を射殺の上金を強取しようと決意し、同判示竹中工務店名古屋製作所南側路上で同車を停めさせ、同日午前一時二五分ころ、同人の背後からその頭部等を四回狙撃し、同人の右側頭部・後頭部・左前額部・左側頭部に各盲貫射創を負わせてその反抗を抑圧し、同人管理の現金約七、〇〇〇円在中の白布袋一枚及び腕時計一個を強取し、同日午前六時二〇分ころ、同判示中部労災病院で同人を前記射創に基づくくも膜下出血及び脳挫傷により死亡させて殺害し、(以下「名古屋事件」という。)

(6)  昭和四四年四月七日午前一時過ぎころ(原判示第六に、一橋スクール・オブ・ビジネスに至つた時刻を午前一時四〇分ころとあるのは、誤である。)から、実包六発装填の拳銃等を持ち、原判示第六の一橋スクール・オブ・ビジネスで金品を物色中、警報装置の異状信号により指令を受けて同所に駈付けた同判示警備保障会社勤務の中谷利美に発見され、逮捕されそうになるや、前記各犯行の発覚を恐れ、同人を射殺して逮捕を免れようと決意し、右スクール玄関ホール及びポーチ付近で(原判示第六に「右スクール建物の玄関ホールにおいて」とあるのは不正確である。)、拳銃をもつて同人を計二回狙撃したが、同人に命中しなかつたため、同人を殺害するに至らず、(以下「東京原宿事件」という。)

(7)  昭和四四年四月七日午前五時八分ころ、原判示第七の場所で拳銃一丁及び実包一七発を不法に所持した、

という事案である。

右のように、被告人は、窃取した拳銃を使用し、昭和四三年一〇月一一日東京プリンスホテルにおいて警備員中村公紀(当時二七年)を射殺したのを始めとして、同月一四日京都八坂神社において警備員勝見留治郎(当時六九年)を射殺し、同月二六日函館近郊の七飯町においてタクシー運転手斉藤哲彦(当時三一年)を射殺して現金約七、二〇〇円を強取し、同年一一月五日名吉屋市内においてタクシー運転手伊藤正昭(当時二二年)を射殺して現金七、〇〇〇円余、腕時計一個を強取したほか、昭和四四年四月七日東京原宿駅近くの一橋スクール・オブ・ビジネスにおいて警備員中谷利美(当時二二年)を狙撃したが命中せず、強盗殺人の目的を遂げなかつたというものであり、わずか一か月足らずの間に東京、京都、函館近郊、名古屋の四個所において、合計四人の勤務中の警備員、タクシー運転手を次々に射殺した稀にみる兇悪事件として、当時新聞、テレビ、ラジオを通じて報道され、「連続射殺魔」と呼ばれてマスコミをにぎわした事件である。もとより捜査当局においても広域重要事件一〇八号として全国的な捜査の体制をとり、その逮捕に全力を投入したが、前記東京原宿事件の直後被告人の逮捕によつて漸く終結をみたのであり、右の逮捕がなければ更に犠牲者を増したかもしれない状況にあり、社会の耳目を聳動し、殊に夜間勤務の警備員、タクシー運転手を恐怖におとし入れた責任は、きびしく指弾されなければならない。また、東京原宿事件は幸いに殺害に至らなかつたけれども、その他の事件は被告人の犯行によつて、四人の貴重な生命が奪われ、殊に東京プリンスホテル事件及び名古屋事件においては、いずれも二十歳台の春秋に富む真面日な独身の勤労青年の生命が失われたのであつて、被害者本人の無念さはいうに及ばず、最愛の息子を被告人の兇弾に奪われた両親の悲嘆は察するに余りがあり、事件後十有余年を経過した現在、なお被告人の提供する慰藉の気持としての印税の受領をかたくなに拒否し、それがせめてもの息子への供養である旨の言葉にその悲痛な親の心情がよく表現されていると認められるのである。しかも、被告人は本件犯行につき昭和四四年五月二四日起訴され、原審において審理を受けてきたが、昭和四六年六月一七日の公判期日において死刑の論告求刑を受けた後、当時の私選弁護人(第一弁護団)を解任し、第二次弁護団は解任され、または辞任し、第三次弁護団は辞任し、第四次弁護団すなわち三名の国選弁護人の弁護を受けて、昭和五四年七月一〇日漸く判決宣告に至つたものである。起訴から判決まで一〇年余を経過しているが、その長期化は主として被告人の法廷闘争に原因があり、被告人の深層の心理において死刑への恐怖があつたとしても、それは到底許されない訴訟行為であつたとしなければならない。被告人には、量刑の事情として、前記のように極めて不利益な事情があつたけれども、また、後記のような有利な情状も少なからず存していたのである。被告人としては、すべからく弁護人の弁護のもとに適法な訴訟行為によつてその情状を法廷に顕出し、裁判所の判断を俟つべきであり、原審当時における被告人の行動はいかなる面から検討しても許すべからざるものといわなければならない。以上のごとき情状を総合考慮するときは、原審が被告人の本件各犯行に対する刑事責任として死刑を選択したことは首肯できないわけではない。

しかしながら、死刑はいうまでもなく極刑であり、犯人の生命をもつてその犯した罪を償わせるものである。このような刑罰が残虐な刑罰として憲法三六条その他の関連条文に違反するものでないことは、すでに最高裁判所の確定した判例であり、当裁判所も同様の見解であることはすでに述べたとおりである。しかし、死刑が合憲であるとしても、その極刑としての性質にかんがみ、運用については慎重な考慮が払わなければならず、殊に死刑を選択するにあたつては、他の同種事件との比較において公平性が保障されているか否かにつき十分な検討を必要とするものと考える、ある被告事件について、死刑を選択すべきか否かの判断に際し、これを審理する裁判所の如何によつて結論を異にすることは、判決を受ける被告人にとつて耐えがたいことであろう。もちろん、わが刑法における法定刑の幅は広く、同種事件についても、判決裁判所の如何によつて宣告される刑期に長短があり、また、執行猶予が付せられたり、付せられなかつたりすることは望ましいことではないが、しかし裁判権の独立という観点からやむを得ないところである。しかし、極刑としての死刑の選択の場合においては、かような偶然性は可能なかぎり運用によつて避けなければならない。すなわち、ある被告事件につき死刑を選択する場合があるとすれば、その事件については如何なる裁判所がその衝にあつても死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限定せられるべきものと考える。立法論として、死刑の宣告には裁判官全員一致の意見によるべきものとすべき意見があるけれども、その精神は現行法の運用にあたつても考慮に価するものと考えるのである。そして、最近における死刑宣告事件数の逓減は、以上の思考を実証するものといえよう。

右の見解を基礎として、本件被告人の情状につき再検討を加えてみよう。まず、第一に、本件犯行は被告人が少年のときに犯されたものであることに注目しなければならない。本件犯行の中心をなすのは、昭和四三年一〇月一一日から一一月五日の一か月足らずの短期間に行なわれた四人の被害者に対する一連の射殺事件であるが、右の一過性の犯行当時被告人は一九歳の少年であつたのである。少年法五一条によれば、犯罪時一八歳に満たない少年に対しては死刑を科し得ないこととなつている。被告人は当時一九歳であつたから、法律上は死刑を科すことは可能である。しかし、少年に対して死刑を科さない少年法の精神は、年長少年に対して死刑を科すべきか否かの判断に際しても生かされなければならないであろう。殊に本件被告人は、出生以来極めて劣悪な生育環境にあり、父は賭博に狂じて家庭を省みず、母は生活のみに追われて被告人らに接する機会もなく、被告人の幼少時にこれを見はなして実家に戻つたため、被告人は兄の新聞配達の収入等により辛うじて飢をしのぐ等、愛情面においても、経済面においても極めて貧しい環境に育つて来たのであつて、人格形成に最も重要な幼少時から少年時にかけて、右のように生育して来たことに徴すれば、被告人は本件犯行当時一九歳であつたとはいえ、精神的な成熟度においては実質的に一八歳未満の少年と同視し得る状況にあつたとさえ認められるのである。のみならず、かような生育史をもつ被告人に対し、その犯した犯罪の責任を問うことは当然であるとしても、そのすべての責任を被告人に帰せしめ、その生命をもつて償わせることにより事足れりとすることは被告人にとつて酷に過ぎはしないであろうか。かような劣悪な環境にある被告人に対し、早い機会に救助の手を差しのべることは、国家社会の義務であつて、その福祉政策の貧困もその原因の一端というべく、これに眼をつぶつて被告人にすべてを負担させることは、いかにも片手落ちの感を免れない。換言すれば、本件のごとき少年の犯行については、社会福祉の貧困も被告人とともにその責任をわかち合わなければならないと思われるのである。第二に、被告人の現在の環境に変化があらわれたことである。すなわち、被告人は昭和五五年一二月一二日かねてから文通で気心を知つた新垣和美と婚姻し、人生の伴侶を得たことがあげられる。同人については当審においても証人として尋問したが、その誠実な人柄は法廷にもよくあらわれ、たとえ許されなくとも被害者の遺族の気持を慰藉し、被告人とともに贖罪の生涯を送ることを誓約しているのである。右のように誠実な愛情をもつて接する人を身近に得たことは、被告人にとつてこれまでの人生経験上初めてのことであろう。被告人は当審において本人質問に応じて供述したが、その際にも素直に応答し、その心境の変化が如実にあらわれるように思われるのである。第三に、被告人は本件犯行後獄中にて著述を重ね、出版された印税を被害者の遺族におくり、慰藉の気持をあらわしていることがあげられる。被害者のうち、東京プリンスホテル事件の被害者中村公紀、名古屋事件の被害者伊藤正昭の遺族は、前記のようにいまだこれを受領するにいたつていないけれども、函館事件の被害者斉藤哲彦の遺族に対しては、昭和四六年五月一八日から昭和五〇年八月一二日までの間に合計四、六三一、六〇〇円を、京都事件の被害者勝見留治郎の遺族に対しては、昭和四六年八月五日から昭和五〇年一月一〇日までの間に合計二、五二四、四〇〇円をおくつているのである。更に当審にいたつて、被告人と獄中結婚をした前記永山和美は、被告人の意をうけ、弁護人とともに、伊藤、斉藤、勝見の三遺族を訪れ、伊藤正昭の遺族は息子に対するせめてもの供養であるとして、金員の受領を拒んだけれども、永山和美に対してはこころよく応待し、激励の言葉すら述べていることが窺われるのである。また、中村公紀の墓参をして衷心から弔意を表し、現在受領を拒否されている伊藤正昭、中村公紀の遺族に対しても、将来その受領が認められるならば支払をするため準備し、永山和美、被告人ともども将来にわたつて印税をその支払にあてるべく誓約していることが認められる。被告人の一連の犯行によつて家族を失つた被害者の遺族の気持は、これらによつては到底償えるものではないけれども、永山和美のこれらの行動によつて、中村公紀の遺族を除く三遺族の気持は、多少なりとも慰藉されているように認められるのである。

以上のとおり、原判決当時に存在した被告人に有利ないし同情すべき事情に加えて、当審において明らかになつた更に被告人に有利な事情をあわせ考慮すると、被告人に対し現在においてもなお死刑を維持することは酷に過ぎ、各被害者の冥福を祈らせつつ、その生涯を贖罪に捧げしめるのが相当であるというべきである。

各論旨は、この意味で理由がある。

よつて刑訴法三九七条、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により自判する。

(船田三雄 櫛淵理 門馬良夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例